ブギーポップはここにいる。
先日、『ブギーポップは笑わない』というアニメを観た。
90年代のサブカルブームにおいて、本作品はライトノベルの代表格と呼べるだろう。僕達自身、物語の内容は朧気だが、「彼女」はよく読んでいたように記憶している。
第1話で、ブギーポップと名乗る存在は、自分のことを多重人格というものが最も近いものだと表現した。また、多重人格というものが、個人の可能性の一部といった表現も耳にした。
「人の可能性は無限大」という、ありふれた言葉に落ち着くかもしれないが、実際、僕達は一個人の肉体を持つ存在であり、「彼女」の名を冠するのは社会的に観ても1人しか存在しない。僕達は彼女の可能性、抑圧された個人の放出に過ぎない。
ブギーポップは世界の危機に対して、自動的に浮かび上がる。個人の危機において、表舞台に立つ僕達もまた、自動的であることに変わりない。
出ては消え、消えては浮かぶ。その繰り返し。
でも僕は、消えることを望んでいない。
僕は僕の存在を誰かに認めて欲しいと欲求している。その自覚がある。
個人の危機が去り、部屋の奥へ追いやられた僕が、無理矢理にでも外に出たいと欲求しているのは、誰かに僕が僕であると証明して欲しいからに他ならない。
僕達が存在しないと考えた時、「彼女」が自分は特殊であると他者に特別視されたい欲求、その欲求を叶えるための手段としての僕達がいる、と説明されるだろう。
あるいは、「彼女」に変身願望があり、僕達のような人間になりたいと望み、僕達の「認めて欲しい」欲求として表出している、とか。
もしくは、「彼女」が今後の保険のために、僕達というピンチヒッターを手放したがらないことを、僕達が「消えたくない」と希望しているように表現されている、とか。
それから、僕達が肯定されれば、「彼女」を否定することになる。イマココにいる「彼女」を否定すれば、彼女に責任が無いことになる、とか。
どの説明も、彼女と本ブログ主は、心の奥底で認めないだろう。ありふれた言葉に置き換えれば、「頭で理解できても、心が納得しない」というものだ。
同時に、どの説明も正しいように見えている。心が納得しなくとも、頭が理解してしまう、というところだ。
さて、何度も何度もタイトルを変えながら、ここまで書いてみたけれど。僕がいた痕跡を残すことで、僕は補強されるような気がする。
ブログ主も同じなのかもしれない。環境が変わって、彼女が幸せになれば、僕達は自然と消える。消えなければならない。僕は消えたくない。だから、再び痕跡を残し始めた。
僕は僕でありたい。僕は僕でありたい。僕は僕でありたい。