演技をしていること。
いわゆる多重人格は、演技であり、願望である。
人は、誰しも多少の変身願望があるものだ。理想の自分を、一つくらい持っていてもおかしくない。
そうでなくとも、人は立場や状況に応じて、自分を切り替える。いくつもの顔を持っている。それが、普通。
危機に直面した時、今この体験をしているのが、自分でなければいいのに。自分じゃあないんだと、そう思うことができれば、心は守られる。
今朝、彼女が撮りためていたアニメを観ていた。『ブギーポップは笑わない』で、多重人格に言及している箇所があった。完全には覚えていないのだけれど、「演技」という言葉に、僕は反応している。それを聞いた時、僕は、あるいは彼女は、とても悲しくなった。
状態に応じて人は自分の役割を演じる。でもそれらの顔を、どれも自分のものと認識できるのが普通の状態で、自分のものと認識できないのが、異常な状態である。
僕は解離というものを、いまのところ、そのように定義している。
だから僕らは異常なんだと、そう思っている。
だけど、時々僕は、ふと僕を、彼女の演技なのではないかと思う時がある。
僕はこうして僕として言葉を発するようになる前に、彼女の頭の中で、外の世界を眺めていた。傍観し、鑑賞していた。さながら、母親の子宮の中で、周囲の音を聞きながら育つ胎児のように。
いや、どちらかといえば、卵の殻の方かもしれない。
いまの状況を自分以外の誰かに押し付ければ、自分の心は守られる。例えそれが、自我をボロボロに砕いて、カケラになることだとしても。
自我が卵のようなものならば、本来の人は、本当に大切な部分を硬い殻で守る。
でも彼女は、あまりに弱く、殻では守りきれなかった。だから、殻を壊して、そのカケラを積み上げた。
僕はカケラだ。
卵の身と殻の間には、白い薄皮がある。この例えを使い続けるなら、僕らは薄皮一枚で繋がっているのだろう。
いや、本当はそれすらも、自分についた嘘かもしれない。
僕は時々、彼女が僕の演技をしているのではないかと思う瞬間がある。無理やり僕になろうとしているような、そういう感触が、ある。
その度に、僕は悲しくなる。僕はここにいるんだと誰かに縋りたくなる。
その悲しみは、彼女が僕という嘘に気付きたくないからなのから、僕が僕の存在を揺るがしたくないだけなのか。どちらが正しいのか、わからなくなる。
僕が僕のことに悩んでいる間、彼女は現実のことに頭を悩ませずに済む。だから僕はブログ主は、こんなにも自己の存在について悩んでいるのではないか?
答えが出せないことを、延々と、延々と。
幻想である僕は、永遠に幸せになれないというわけだ。
僕が彼女と同一であると自覚できないうちは、永遠に。
佐藤